2011年04月23日

火葬塚巡り@ “今は無き姿…”〜堀河天皇火葬塚

立命館大学や等持院から南へ。


住宅街に囲まれたトコに史跡はひっそりと眠っています。


4.23 A.jpg

4.23 B.jpg


『堀河天皇火葬塚』



堀河天皇は第73代天皇。


平安時代後期、白河天皇の息子で8歳の時に即位しました。

そう!
かの有名な「院政」で有名な白川上皇が最初に院政を行ったときの天皇です。

幼少で即位した、かつ病弱で実権は父・白川上皇が握ったまま。
堀川天皇は学問と和歌、管弦に才能を発揮したと伝えらています。
しかしながら病弱から、帝位に就いたまま29歳で崩御しました。



堀河天皇陵は火葬塚から北へほど近い龍安寺の山奥に鎮座されています。

ココ火葬塚は現在、こんもりとした盛土が見られますが数年前までは、それはとても大きな松の木が一本聳えていました。
火葬塚の大半を木陰にするほどの立派な松の木だったそうです。

しかし、松枯れにより伐採され今日のような味気ない姿に変わりました。


天皇陵などの史跡周辺には樹木が多く生い茂っています。
ココ、火葬塚もいずれ植えられ、元の姿に戻ればなぁ〜と想いながら一礼した小生でした手(パー)


「堀河天皇火葬塚」で検索すれば松の木があった火葬塚が見られますよ〜

見る価値アリわーい(嬉しい顔)です!



posted by ひとし at 19:34| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月13日

前方後円墳に上れます 〜千歳車塚古墳

4.13 A.jpg



菜の花が咲き、青空が広がり、遠くには山々が並んでいます。



長閑な風景ですわーい(嬉しい顔)



「やっほ〜〜〜〜!!!」と、叫んでおきましょうか。



やめてね。隣は普通の畑なんで…




さぁ、この何気ない風景に史跡が隠れています手(パー)




コレっどんっ(衝撃)


4.13 B.jpg


遠くの山に手前に見える、こんも〜りとした二つの丘。



『千歳車塚古墳』です。



亀岡市北東部に位置するこの古墳。

形状は前方後円墳。
口丹波地域では現存する最大の前方後円墳です。

北西から南東に築かれ、全長80b。
後円部直径41b、高さ7.5b。
前方部幅45.5b、高さ6b。

前方部と後円部との間にはくびれがあり、整い美しい姿を今に残しています。

また、古墳周辺の菜の花は周濠の跡で、当時の権力者の大きさを伝えています。




この千歳車塚古墳!



なんとexclamation×2



古墳に上がれるんですグッド(上向き矢印)



上の写真でも石碑の左側に獣道みたいな線、見えませんか?



上がってみましたわーい(嬉しい顔)



4.13 C.jpg



急峻なあぜ道で気を抜くと、つるっと滑り落ちるので注意!


前方部の頂上から後円部を望みます。



4.13 D.jpg



後円部の高さがちと高いのと、くびれがよ〜く理解できます。



てかexclamation&question


これだけ巨大な古墳に上ったの初めて〜るんるんるんるんるんるん



ね、普通〜古墳って史跡に指定され、重大に管理され上ることが出来ない!

と、常識的に持っていますよね〜


てか、墓に上れるって!!!



墓の主さん、ごめんなさい。



様々な想いが入り混じりながら後円部へ歩みを続けます…



4.13 E.jpg


後円部から前方部を見ます。



以前にも書きましたが、前方後円墳と習いましたが現在では後円部が“前”と考えられていて、直すのであれば「前円後方」墳が正しいんです。



いずれにせよ高さ6〜7bから眺める長閑で畑が広がる形式は、時の権力者の権力範囲を見渡すことが出来る範囲と重なっていたのでしょう。



そして、古墳上部には恐らく木々が生い茂り、聖地となっていたのかもしれません目



ちなみに古墳の説明版に航空写真から見た千歳車塚古墳が掲載されていました。


4.13 F.jpg



千歳車塚古墳へは…

丹波国一之宮・出雲大神宮から西へ車で2分ほど。

京都縦貫道・千代川インターから東へ3`ほどです。




あなたも古墳に上ってみませんか?


最後に埋葬されている方へ感謝を込めて合掌。




posted by ひとし at 22:37| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

逢坂の関所

東海道・国道1号線、京都山科から大津へ抜けるトコ・逢坂山。


逢坂山には東海道本線、京阪京津線、名神高速道路、国道1号線と日本の大動脈が密集しており交通の要所として知られています。


江戸時代、東海道であった頃ももちろん!交通の要所!


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「逢坂の関跡」


ココを通らないと京都から東国・北国へ抜けることは出来ません。

そこに関所を設け、都への往来を監視の役目を果たしていました。


現在、石碑は国道1号線沿いに建てられ、さらに横には…



3. 9 B.jpg


水戸黄門のセットのように関所のようなモニュメントが作られています。


関所入り口って木の柱が二つ立っている!ってまさしくですグッド(上向き矢印)


ココには門番が居て、無理に入ろうとすると門番二人が長い槍で“×”を作るように通せんぼ!!!


「何者っ!!!」


なぁ〜んてねわーい(嬉しい顔)



奥の関所本所のような建物は…


3. 9 C.jpg


 「 厠 」



いやぁ〜いいね手(チョキ)


トイレではなく、
便所ではなく、


厠!!!



この場合、公衆便所ではなくて“公衆厠”と呼ぶのでしょうか?



数多くの往来を見守った厠…ではなく関所。


詩にも数多く詠まれ…


・「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」by蝉丸

・「名にしおはば 逢坂山のさねかずら 人にしられで くるよしもがな」by三条右大臣

・「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」by清少納言




今ではあっ!という間に通過してしまいますが、峠や関所はじっくり探検するとその時の記憶が眠っているはずですわーい(嬉しい顔)



posted by ひとし at 19:18| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月06日

旧蹴上発電所、天への階段

蹴上交差点近くに凛々しく建つ煉瓦造りの建物。

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琵琶湖第二疏水の利用により発電するため1912年(明治45年)に完成した第二期の蹴上発電所。



疏水により路面電車や時計、紡績工場への送電と新しい産業の創造に貢献しました。

第二疏水完成でさらにパワーアップ!

昭和11年まで活躍しましたが、その後現在まで外観は保存されています。



では!内部は?


そうです手(パー)


京都大学が建物を借用し、原子核科学研究施設として利用され大きく内部は改装されたとか…





そのような歴史ある建物。

西側から見ると…


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やわ〜い階段で屋根に上ることができます!



柔すぎません?



上れば、二度と降りられなくなりそうですふらふら



さらに、この階段がある土台部分。


最上階の窓から木の板6枚で作られています。



3. 6 C.jpg



コレもまた、やわそ〜ふらふら


支えの部分も不安が残ります…



また、地面からの高さも相当なモノ。



いやぁ〜屋根に上がるためですが、必要だったのでしょうか?




歴史ある建物の一方で現代的に考えることはナンセンスだったでしょうか?


「どうも細かいことが気になる者ですから…(右京さん風に)」




posted by ひとし at 23:51| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

ジャマ? 重要? 〜瓜生石

知恩院のちょっと北の三差路にある不思議な囲いのモン!

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古門前通りから東へ、華頂道と名を代えて神宮道と交わる交差点です。


昔から通る度に「邪魔ちゃうの〜?」「何〜?」と感じながらもマジマジと見なかったトコ。



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中央には星のような、置き石のように保存されています手(パー)


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石碑には『瓜生石』



地上にうっすら顔を出している石。


何人も踏んだ踏み絵のようにも見えます目


囲われているコトは相当重要な石なのでしょう!



で、瓜生石は知恩院のサイト「知恩院の七不思議」にて紹介exclamation

黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあるといわれ、周囲に石柵をめぐらしてあります。
この石には、誰も植えたおぼえもないのにこの石から瓜のつるが伸び、花が咲いて、瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実ったという説とが伝えられています。また石を掘ると、二条城までつづく抜け道があるとか、隕石が落ちた場所であるとか、様々な話が言い伝えられている不思議な石です。

1175年に建立された知恩院なので、平安時代から存在するらしい石。

また、八坂神社は社伝によると平安京遷都以前の656年に創祀されたとか。
牛頭天王は祇園精舎の守護神であられ、八坂神社の御祭神として祀られています。
祇園祭では牛頭天王を神輿に祀り、氏子地域を巡る、ちょいと馴染みある神様です。


瓜生石に表れていれば、移動も撤去も出来ませんね〜


罰が当たる!
工事関係者がケガをする!


などの言い伝えはよく聞きます耳


また、八坂神社の神紋は“五瓜に唐花紋”であり、“瓜”が重要視されていることがよく理解できます手(パー)


また他の文献では牛頭天王は近くの粟田神社に移られたとの説も。

粟田神社は八坂神社グループ。
粟田神社の粟田祭りは一時、祇園祭が催せない時には代行の役目も果たしていた由緒ある神社です。
 ※2010年10月11日に粟田祭の記事があります。



何気ない石ですが、史跡であることは間違いナシ!

しかしexclamation知恩院のサイトより八坂神社のサイトでの紹介の方がエエんちゃいますか〜手(パー)と。。。



posted by ひとし at 22:20| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

“堀川”の史跡発見!!!

南北を走る大通り・堀川通り。


片側3車線を誇る、市内では珍しい大通りです。

戦後復興の際、防災を考慮に入れ現在の大通りに広がったとか…


堀川御池より北側では以前ご紹介した堀川が流れています。


当然ながら御池以南でも堀川の流れはアリ、近鉄京都線西側を流れ鴨川へと至ります。



前々からどこか明確な石碑でもないかな〜と想っていると、偶然にも願いは通じましたわーい(嬉しい顔)



1.24 A.jpg


四条堀川交差点、南東角。



生け垣に何やら、何やら目


1.24 B.jpg


橋の名前がゴロンと捨ててあるかのように保存されています。



「綾小路橋」



四条通り一本南側の通りは綾小路通り。


恐らく堀川が架かっていた跡であると推測できますね〜グッド(上向き矢印)



1.24 C.jpg


ホラ!「堀川わーい(嬉しい顔)



いやぁ〜幾度も通ったこの場所。



まさか生け垣に埋もれているように石碑があるなんて!



てか、もうちょっと保存の仕方があると想いません?



なんたって街ブラは密かなブームなんですからexclamation×2



ま、写真を撮っていたら近所のおっちゃんらしき人に「何してんねん!」と、ばかりに覗かれましたけど…




 「土地の記憶」



大事にしていきましょわーい(嬉しい顔)



posted by ひとし at 20:41| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月18日

京の大仏さんのでかい石垣が整然と並んでます。

久しぶりに『石垣』が登場exclamation×2

石垣は主にお城や砦に〜と思われていますが…


1.18 A.jpg



まさしく!“巨石どんっ(衝撃)


人の背丈よりもはるか大きく、両手を広げてもなお!さらに大きな石が約200b南北に連なっています。


場所は大和大路通り(四条あたりでは縄手通りとも呼ばれています。)の七条通りから北へ歩んだトコ。

京都国立博物館と北隣には豊臣秀吉公を祀る豊国神社が並ぶトコです。



南北を走る大和大路通りは車2台がすれ違うのがやっとの市内特有の道ですが、この辺りだけは両側に歩道が設けられ、片側1車線が整備され、さらに路上パーキングが設置されるほどの大通り。



この石垣の大部分は豊国神社の基になっているのですが…もともとはちゃうんですexclamation×2



1.18 B.jpg


『大仏殿石垣』の石碑。



豊臣秀吉が1595年に9年の歳月を費やして完成させた『方広寺の大仏さん』


奈良・東大寺の大仏よりさらに大きい18bの高さまで及びます。

大仏殿は高さ49b、南北約90b、東西約55bと巨大な建物であったのは言うまでもありません。



派手好きの秀吉はんらしさが如実に表れてますわーい(嬉しい顔)


京の大仏さんは完成後すぐに大地震で倒壊。

再建が図られるも途中で火災。

さらに、再建が企図されるもかの有名な梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文によって徳川家康が豊臣家に対して“いちゃもん”付け大阪の役へ突入。

秀吉が建立した物を利用して豊臣家滅亡と数奇な運命を途絶え、現在は秀吉を祀る豊国神社の礎となっています。



豊国神社本殿裏手、また東山通りから人一人が通れる道を100b西へ入ったトコは現在、大仏殿跡緑地公園として整備されています。

ここでは2000年に発掘調査が行われ大仏殿の大きさが判明し、さらに大仏の石座が発見され保存されています。




まだまだ京の大仏さんの名残は周辺に…


@大和大路七条交差点北東角の交番は『大仏前交番』

A東西の通りで五条と七条の間に『正面通り』が存在します。
  この正面通りの“正面”は大仏さんの正面に当たる道から名付けられ、鴨川に“正面橋”も架けられています。


他に豊国神社から正面通りを西へ進んだトコに小高い墳丘・耳塚があります。
朝鮮出兵で戦利品として持ち帰られた供養塔です。

さらに、豊国神社より東へ。京都女子大学正門を超えると豊臣秀吉のお墓「豊国廟」が山中に作られています。


あちこちに秀吉の歴史が名付けられているトコでした手(パー)




posted by ひとし at 20:03| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

ど根性樹木

一時期、ど根性大根!など、報道され一世を風靡しましたね〜


コレもエエ感じの“ど根性”あると思いません?



1.11 A.jpg



“ど根性な気!?木”




V字に分かれ、樹皮は隆々と盛んのように見えます。


根元部分はアスファルトを剥がす勢いに盛り上がっています。



恐らく、人間に途中で切られたことでしょう。


そんなの関係ねぇ!


反面教師か?


木の生命力がビシビシと伝わってきますわーい(嬉しい顔)




計画的に考えるとあっさりと伐採される運命だったでしょう。


しかし!なにがしらのコトがあって今日に至るのでしょう。


その土地の記憶を今に伝えようと“ど根性な木”が奮闘していますexclamation




めっちゃ寒いけど、木を見ていると「寒い!寒い!」って言ってられません!

寒い!言うから寒いねん。

暖かさに慣れてしまっているのでしょう。


ん?小生?

我が部屋ではこたつのみ!
暖房は相変わらず入れてませ〜んグッド(上向き矢印)



ラベル:京都市南区
posted by ひとし at 20:34| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

明る〜い ナショナルるんるん

明るい ナショナルるんるん
明るい ナショナルるんるん
みんな 家中るんるん
なんでもナショナル〜るんるん



1. 8 A.jpg



妙心寺境内にあるお寺。



天井を見上げると、これまた“昭和”を感じさせる、それも高度成長時代でしょうか…



裸のままの羽を大きくぶるん!ぶるん!と、回す扇風機台風



真夏はまだまだ現役で活躍!




その根元を見ると目今は亡き…




 『ナショナル』




の文字!水戸黄門CMでお馴染み!




今日のように強弱やリズム、タイマーなど一切無く、“入”“切”のシンプル!




ナショナルの文字を見付けた瞬間にうる覚えの歌詞を口ずさんでしまいましたるんるん




天井で回るタイプは確か、大阪環状線のオレンジ色電車でもあったような…

いや、もう全て取り替えられたでしょうか…

昭和の古き良き電化製品にテンションが上がった一日でした手(パー)



posted by ひとし at 20:23| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

だんじょ水の音が響く街

水の音に反応する小生。



川のせせらぎ。

ダムの放流。

荒れ狂う海。


等々…



しかしながら、「えっ!?こんなトコで水の音が…!?」と驚くことがあります耳



12.21 A.jpg


 『だんじょ水』




山科駅から南に走る外環状線。その一本、西側を走る商店街の通り・醍醐道。


街の電気屋さんや呉服店、文具店とごく一般的な商店街に突如exclamation水が流れる音わーい(嬉しい顔)


観音様の足下に絶えず流れ落ちる・だんじょ水。

水量は豊かそのもの。


案内板には…
「だんじょ」は「談所・壇所」、元来僧侶の修行する所、お坊さん養成寺院の通称で、江戸時代初期の寛永二十年(1643年)、この一帯の竹薮四千坪を切り開いて創建された日蓮宗護国寺のことである。
 いつ頃からか地域の人々は、この水を「だんじょ」と呼び習わしてきたが、護国寺を「だんじょのお寺」と言ったように、正しくは「だんじょ用水」と称すべきである。
 永年、水不足に苦しんできた竹鼻西部村民たちの用水願望が、護国寺の協力を得て、余水を地下埋設水路を以って、現在地まで導水する画期的難工事を完成させた。
確かな資料は見当たらないが元禄期以前と考えられる。
 以来三百有余年「だんじょ用水」は、昭和初期まで夏は冷たく、冬は温かい清冽な水が管一杯に溢れ、地域の人々の生活を支えてきた。近年いろいろな事情により枯渇してしっまた由緒ある「だんじょの水」を憂い、保存を願う有志の努力により、姿を変え見事に復活することになった。
また、“水徳”なるものから菩薩様がおられるようです。


コレほど美しく整備されたのはここ最近の話しのようグッド(上向き矢印)


思わず、水を飲んでみようかな〜と、近くによると…




「飲み水ではありません。」




との張り紙…惜しいっふらふら



水は人にとって欠かせないモノ!


水が近くに流れ&音が聞こえると自然と落ち着きます。

例えば、登山でせせらぎの音が聞こえると安心して思わず見たくなりませんか?


住宅街に流れる川や水路は贅沢そのものわーい(嬉しい顔)

水を見ながら会話が弾み、魅入ったり。。。



商店街や住宅街の憩いの場、緩衝や融和の場のように感じた『だんじょ水』でした〜たらーっ(汗)



ラベル:京都市山科区
posted by ひとし at 23:30| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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