2012年11月02日

秋の京都御所一般公開で“門巡り”

11月4日まで秋の京都御所一般公開が行われています晴れ

2012年は明治天皇生誕160年、崩御100年に因んだ絵図やパネルが展示されています。



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小御所では践祚の儀を描いたパネルと高座が展示されています。

践祚とは皇位につくことを意味します。
1867年(慶応3年)に明治天皇は小御所で即位されました。


時を経て、歴史的瞬間の場所に今、立つことで共有できるとは感慨深いですわーい(嬉しい顔)





さて、小生は今回の一般公開で注目したトコは「門」です。



@『建礼門』


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京都御所南面にある正門。


天皇陛下の御通行や外国元首等の国賓来訪の時に開かれます。
格式の高い門であり、小生が通ることはまず皆無でしょう手(パー)


檜皮葺に金色の建具。

品格ある荘厳さが感じられる門です。



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コチラは屋根と門の間にある何かしらのモノ…

恵比寿様?かな。





A『建春門』


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東側南よりに位置する門です。



唐破風の屋根と金色の建具。


勅使の出入りに使われ、明治以降は皇后陛下や皇太子殿下の御門となりました。
また、外国の首相にも用いられます。


コチラも気品高く感じられる門ですわーい(嬉しい顔)




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馬に跨り勇壮な姿が飾られています。






B『宜秋門』


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西側南よりに位置する門。



別名・公家門や唐門とも呼ばれ、摂家・親王・門跡・公家等が利用した門です。



桧皮葺き、切妻屋根とそれまでの門とはやや格下と感じますが、威風堂々とした宜秋門です。



一般公開では宜秋門が入り口として利用されています。
公家が御所へ参内し車寄せ、そして現代で言う待合室などが門すぐに設置され一般公開で公開されています。







C『清所門』


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西側中央部に設置されている門。



別名・御台所御門と呼ばれ京都御所の勝手口的な存在です。



一般公開では出口として利用され、皇宮警察が常駐しています。






D『皇后門』


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西側北よりに位置する門。


御所内で一番奥、つまり北側には皇后宮常御殿があります。
後宮とも呼ばれます。


皇后宮常御殿に近い門として勝手口のような通用門です。

皇后がいらっしゃる時に皇后門。
女御の場合には女御門と呼ばれていたそうです。



清所門と皇后門は瓦葺きで通用口のように身近に感じられるかなわーい(嬉しい顔)







D『朔平門』


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御所北側に位置する門。



切妻造り、檜皮葺です。



後宮の正門として利用されていました。




現在では上御霊神社の祭りで勅使が朔平門から祭りを迎えるために開かれます。






京都市内はやや色付き始まったかな〜?状態です。
本番ではありませんが、悠久の歴史を感じてみてはいかがでしょうかわーい(嬉しい顔)


『京都御所秋季一般公開』
期間:11月4日(日曜)まで
時間:午前9時から午後3時30分まで

入場無料





posted by ひとし at 21:57| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月30日

京都市内最大級!お稲荷さんの古墳 〜天塚古墳

右京区太秦に京都市内で最大級の規模を誇る古墳です手(パー)



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三菱自動車京都工場の北側から古墳がある方向を眺めます目
後方の雑木林のようなトコが目指す古墳です。



住宅街にひっそりと佇む古墳。と、思いきや入り口には…


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「白清稲荷大明神」の石碑と鳥居などなど神社?

コレは後ほど合点です…



コチラの古墳。




 『天塚古墳』




前方後円墳で国の史跡に指定されています。
6世紀前半に造られたとされ、一帯を治めていた渡来人・秦氏一族の墓と考えられています。

嵯峨野太秦古墳群の一つで、蛇塚古墳に次ぐ全長70bほどの規模を成しています。
二つの横穴式石室を持ち、中央部と前方部の2カ所にくびれがあるのが特徴です。

1887年(明治20年)に発掘調査が行われ約400点に及ぶ副葬品が出土したそうです。





時雨の影響で暗い写真ばかりです。ご容赦くださいふらふら

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天塚古墳は周囲をぐるりと参拝できるよう整備されています。




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くびれの部分手(パー)


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古墳の頂。

神社の神聖なる場所とされています。


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階段が整備されているように、古墳の傾斜はかなりのもの。


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ぐるりと足古墳南側に石室を発見exclamation×2


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小生でもしゃがまなければならないほどの高さ1.5b。

石室は長さ4.7メートル・幅1.7メートル・高さ約2メートル。

奥には稲荷様が祀られ信仰を集めています。

コレが神社である由縁ですね手(パー)




あと、もう一つの石室………

調べると南西側にあった小屋にあったそうなもうやだ〜(悲しい顔)



京都市内で貴重に現存し見学が出来る、天塚古墳。
くれぐれも神社の境内なので厳かに見学ください手(グー)



posted by ひとし at 22:22| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月11日

日本初の土木工事は淀川。文化を誕生させた淀川。

寝屋川市街地と茨木市市街地を最短で結ぶ橋、「淀川新橋」が淀川に架かります。
淀川の雄大な風景を橋の上から眺めるとなんと!気持ち良いかわーい(嬉しい顔)


この壮大な流れ、ほんの150年前には船が往来し京都と大阪を結ぶ物流の大動脈でした。
今の景色を見るとなかなか当時の盛況さが想像できませんが…

その畔、摂津市鳥飼手(パー)




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 『離宮 鳥養院 の址』




石碑の説明を見ると…
淀川は数多くの人の往来があったと。
都から天王寺、住吉、高野山、熊野への参詣。
さらに西国へと地方官が多く利用していました。
時には、天皇や上皇も。

その中で「曽我物語」の巻第一に、惟喬親王と中将・在原業平が懐旧談にふける条で


「今昔の事ども申うけたまはるにつけても、御衣の御袂、しぼりもあへさせたまはず、鳥養の院の御遊幸…」


また「大和物語」には、宇多天皇がここをしばしば訪れたことが書かれています。

このあたりの字名が「御所垣内」と言われていたことから、石碑の地が離宮があったと推察されるそうです。




京都から大阪まで鳥羽離宮や水無瀬離宮と川と自然が一体となった場所で離宮が造営され、豊かな文化が育まれたことが想像できますわーい(嬉しい顔)

今日は河川敷に公園やゴルフ場、自転車道などと現代の文化と融合している淀川。

大きな回遊式庭園などがまた風流であるかな〜と淡い期待と妄想を続けている小生です手(パー)






その一方で寝屋川市側の淀川堤防で石碑発見!!!!!


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 「茨田(まむた)堤」



コチラは暴れる淀川の水を守るべく築かれた堤が茨田堤。


その年代がめっちゃ古い!

「日本書紀」仁徳11年、つまりは仁徳天皇の御代に…


「天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた。」


との記述があります。
当時の都は難波宮。つまり大阪市。
淀川の水害で悩まされた宮を守るべく、大規模な改良工事が施されたそうです。
堤防を築く一方で、上町台地の先端部を掘削して造られたのが「堀江」


「茨田堤」と「堀江」の大規模工事は書物で残る日本最初の土木工事とされていますわーい(嬉しい顔)



淀川の歴史は絶え間なく流れる水と同じように数多くの歴史をも語っています手(チョキ)




posted by ひとし at 22:23| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月19日

では、埋葬されたのは一体、誰でしょう? 〜太田茶臼山古墳(継体天皇陵)

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 『太田茶臼山古墳 (継体天皇陵)』



茨木市の名神沿いにある宮内庁指定、第26代天皇・継体天皇三島藍野陵。

5世紀頃に造られた前方後円墳です。



前回ご紹介した高槻市・今城塚古墳が真の継体天皇陵であるのが定説ですが、宮内庁さんはコチラが陵墓であると変更せず今日に至ります。

太田茶臼山古墳、上空から撮影できないので茨木市ホームページが引用

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周囲には住宅街が迫ってますが、古墳の景観は大切に保存され保っています。
古墳の規模は…
・全長226b
・前方部幅147b
・前方部長117b
・前方部高19.8b
・後円部径138b
・後円部高19.2b

幅約28bから33bの周濠で太田茶臼山古墳が守られています。




さて、継体天皇陵入り口は西国街道に面しています。

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おおっ目


入り口が開放されているではありませんか!!!!


コレは近づいてもOKですよねー…

通常であれば入り口から立入禁止で正面まで行けないはずが…


鎖はちゃんと畳まれているので、参拝しましたわーい(嬉しい顔)



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松並木の白い参道。
丁寧に直裁されています。



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発見!手水舎


参道を50bほど歩けば、正面に白い鳥居がそびえ立つ継体天皇陵が視界に飛び込んできます。



頭を垂れ参拝。



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鳥居前の白砂は丁寧に整備され、清々しく感じられますわーい(嬉しい顔)


定期的に保存、整備される方に心から感謝です。




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周濠には魚が泳ぎ、墳丘には緑が生い茂り、巨大さがまざまざと感じられます。





道路を挟んで藍野病院北側の小さな公園内に…


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宮内庁指定、柵で覆われた古墳らしきモノを発見目


 『継体天皇陪冢』


の石碑。
陪冢は陪臣、つまり継体天皇の側近のお墓。
主上の近くに納められるのは誉れでしょう。




継体天皇は日本書紀によれば531年頃に没しました。
一方で太田茶臼山古墳が造られたのは5世紀頃。
この矛盾から現在でも論争は続き、定説は高槻・今城塚古墳とされています。
あくまでも手(パー)




posted by ひとし at 22:19| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

継体大王の墓 〜今城塚古墳

高槻市から茨木市にかけての三島地域は三島野古墳群と呼ばれ、あっちこっちに古墳が点在しています手(パー)
その中でも最大級の前方後円墳が



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 『今城塚古墳』




高槻市西部、国道171号線と名神高速に挟まれた地域。
6世紀前半に造られたとされています。

墳丘長さは190b、二重濠を持つことから当時の最大権力者の大きさが窺えます。


その埋葬者。
学説では第26代継体天皇が定説となっていますが、宮内庁指定の陵墓ではなく、発掘調査が出来る天皇陵とし注目を集められた古墳の一つです。

宮内庁は以前、陵墓に編入する答申を反故にし、今日でも今城塚古墳から西にある茨木市・太田茶臼山古墳を継体天皇陵として指定しています。
誰のためのプライドか理解できませんが…


宮内庁のおかげで発掘されたのは形象埴輪や埴輪祭祀区が出土。

内訳は…
・家形
・柵形
・蓋形
・太刀形
・楯形
・靱形
・武人形
・鷹匠形
・力士形
・冠帽男子
・座像男子
・巫女形
・四足動物
・鶏形
・水鳥形
…等々



古墳は整備され、美しい姿を現在に伝えています。


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水を湛える内濠。


現在は釣り等は禁止ですが、整備される前は釣りが出来る濠としてその重要さより憩いの場として親しまれていました。





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ランニングをする人。

歴史好きが古墳の大きさを実感すべく、自分なりの調査をしながら歩む人。


ただ、生活の一部として通る人。





いずれにせよ、この古墳が日本の歴史をより明らかにする大きな一歩を占めたことは疑う余なしわーい(嬉しい顔)


今城塚古墳の横には入場無料の歴史博物館が整備されています。

古墳時代の大王が間近で感じられる今城塚古墳へどうぞ〜時計




posted by ひとし at 19:01| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月01日

並列する前方後円墳の一つ! 〜大住車塚古墳

京田辺市内。
木津川の西岸に広がる田園地帯にこんも〜りとした緑多い丘を発見!

京都と奈良を結ぶ街道を一般的に奈良街道と呼ばれます。
複数のルートがあったと考えられ、本筋は現在の国道24号線。

その他、支道が数多くあったとされます。
そのうちの一つ、現在の府道八幡木津線。
国道1号線・八幡市内下奈良交差点から木津川西岸を南下し京田辺、精華、木津、奈良へと結ぶ道。

重要な道には拠点があり、拠点は有力氏族があったと手(パー)



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 「大住車塚古墳」




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現在も府道沿いに古墳が見て取れます手(パー)



大住車塚古墳。

古墳時代中期の前方後円墳。
内部は盗賊によって壊されはっきりしないらしいです。

埋葬された方は継体天皇の第8皇子と伝わっていますが、継体天皇に第8皇子は存在しないことになっています。
つまりは 謎! ってコトexclamation


この古墳の南西には大住南塚古墳があり、前方後円墳が二基並ぶ希有な地域と言えます。




地元ではこの古墳を通称・チコンヂ山


また…ツッコミたくなる…



いえいえ!
漢字で記せば…


  地魂寺山


または


  智光寺山






美しい姿を今に伝える大住車塚古墳は1974年(昭和49年)に国指定史跡となりました。

全長約66b
高さは最大約4.5b。

長方形の周濠に守られていた立派な古墳。


足元に注意しながら貴重な古墳を見学しましょうわーい(嬉しい顔)




ラベル:京田辺市 古墳
posted by ひとし at 22:24| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

天満橋⇒歩いて⇒天王寺

小生、“歩くこと”はどちらか言うと苦手な分野。
この距離ならこの時間!と、分かっているとモヤモヤ感が充満するんです…

ただ!
歩いたことのない道、知らない道を歩くことは苦ではないのですわーい(嬉しい顔)



  我、開拓者也くつくつ



朝から大阪に来たついでに、その後も街をブラブラしてみると…

かなりの距離を自分では歩きました!!!!
それは………




 くつ「天満橋」から「天王寺」までくつ



地下鉄谷町線での距離は4.5q。
谷町筋ではなく上町筋を南下。途中、寄り道でウロウロしたのでエエ距離になったんちゃうかな〜





@ 大坂城南側の史跡を探訪

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 史跡「浪速宮跡」



“645年大化の改新”はココ!浪速宮での出来事!

飛鳥時代と奈良時代後期に都が置かれた“浪速宮”


大阪市内で高い位置に当たる上町台地に築かれた宮殿は、その昔であれば大阪湾は容易に見渡せたことでしょう。
交通の利便性、貿易面などの要因で遷都されたことは、現在の大阪の発展を見渡せば誰しもうなずくところです手(パー)


戦後、発掘され整備された浪速宮跡。

大極殿跡から大坂城への眺望が素敵ですわーい(嬉しい顔)

この間には中央大通りや阪神高速東大阪線が通っているはずなのに!!!
建設当時にこの辺りの高速が平面が採用され、景観が守られた経緯があるそうですわーい(嬉しい顔)


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礎石が美しく配置され、当時の偉大さが僅かながら思い浮かべることができます。


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灯火を点すことはあるのかな…



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東西には大極殿への門の跡でしょうか?

何カ所か3段ほどの階段と石が並べられています。


太平洋戦争までココに陸軍の歩兵部隊が置かれていたため、広大な土地がそのまま開発されず残っている奇跡の土地と言ってもいいでしょう手(チョキ)


ただ野原を侮ってはいけないパンチ







A 上本町4丁目でクリスマス

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立派な木が上町筋に覆い被さっています。


この辺りは西側の歩道が未整備。
そのおかげでこの木が保存されているのかな…


ふと根元をむかっ(怒り)


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ぐさっexclamation


開発しようか…


祟り!?



気になります…







B 上本町9丁目でダッシュ(走り出すさま)

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“ベタの専門店”



気になったけど…



入り口に…



関西テレビ「よ〜いドン!」 の“となりの人間国宝さん”シールが貼られていたのでスルー⇒⇒⇒⇒





C そして終着・天王寺ビル

天王寺はちとマニアックなネタとともに改めて手(パー)



ラベル:大阪市 浪速宮
posted by ひとし at 19:46| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

大坂城石垣の“美”

日頃、車窓から眺めるだけですが、久しぶりに見てきましたわーい(嬉しい顔)



大阪城exclamation



大阪城の天守閣はさほど興味がなく、興味津々はコチラわーい(嬉しい顔)



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「大阪城外濠」


ココは馬場町から眺めた南外濠です。


何とも立派な石垣と堀の深さに目を奪われます手(パー)


堀の深さは約6b。

ただ、石垣を眺めると白い部分は水に浸っていたのでは推察されます。なので現在は6bより浅いかもしれません。



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さらに石垣の高さは水面から一番高いところで約25bほど。

水深を含めれば10階建てのビルと同等の高さに匹敵します。


コチラも先ほどを考慮すればさらに高さが感じられ、天下の台所・大坂の城の威厳を感じます手(パー)




この大阪城石垣。

天守閣は再建されましたが、石垣は災害や戦禍を耐えて江戸時代から現存されているのが多数を占めます。



大坂城は豊臣秀吉が造った天下の城として有名ですが、大坂夏の陣で焼失。

その後、徳川幕府は2代将軍・秀忠によって西日本支配拠点の城として豊臣時代の大坂城の上に新・大坂城が築城されました。
一説によれば「豊臣時代の大坂城と比べて全て2倍の規模で築城するように」と命じられたとか…

藤堂高虎の設計によって各藩がこぞって天下普請として築城された大坂城が完成したのは1629年。



この石垣に用いられたのは小豆島や犬島、六甲山など。


平和な時代に以降に見られる石垣の積み重ねの美しさと角の部分にあたる反りの美しさ。



まさしく“芸術”ですグッド(上向き矢印)



設計者の藤堂高虎は築城の名手と言われ、石垣の美しさには特に定評があったそうです。




幾度見ても、何時間見ても飽きない、この人工美は本当に見る者を飽きさせませんわーい(嬉しい顔)




…と、時間が過ぎるのを忘れかけるトコ。危ない!危ない!

あっ!せっかく馬場町なのでNHK大阪放送局内にあるコチラをおまけでTV

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NHK大阪総合夕方のニュース「ニューステラス関西」の大きなポスター。
メインキャスター・横尾泰輔アナウンサー特大の笑顔です。
正午のニュースを担当していた頃とは180度違うお姿ですねー



posted by ひとし at 23:58| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月25日

火葬塚巡りA “校舎裏から”〜白河天皇火葬塚

「ちょっと校舎裏へ来いや!!!」


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なぁ〜んて、今でもあるのかな?…あっ!定番は「体育館裏」かな…


校舎裏には車一台がようやく通れるほどの路地が続いています。
校舎が南側にあるため、日中でも日が差さない、ちょっとジメジメした雰囲気が漂います。

その路地から北側、校舎の真裏には…


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丁寧に剪定された一画が表れます目

中心部、外郭、さらには敷地境界までどれもほぼ正方形手(パー)



そして、看板を凝視すれば…

「入るべからず 宮内庁」



そうなんです手(パー)
歴とした遺跡!

大河ドラマ「平清盛」で初回近く、画面いっぱいに睨みを利かした伊東四朗氏扮する「白河天皇」
上皇・法皇と院政を行った第73代白河天皇の…


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『白河天皇 火葬塚』


南側の校舎は京都市立金閣小学校。
世界遺産・金閣寺から南へ約200bほどかな、さらに周囲には左大文字、龍安寺、等持院の他、立命館大学が立地する衣笠地域に火葬塚はあります。

衣笠は京都中心部から北西の地に位置します。
洛中からやや外れるも、少し標高が高く京都市街の眺望がはるか昔、良かったのではないでしょうか?

白河天皇火葬塚以外にも一条天皇・三条天皇火葬塚、三条天皇陵、花山天皇陵、堀河天皇陵、宇多天皇陵などと北西の山際には数多くの天皇陵が存在します。


通常、天皇陵は地図で記されますが、“火葬塚”はあまり見掛けません(地図愛好家の小生の意見です)

偶然にも「ちょっと道に迷ってみよう!」と入り込んだ路地で発見した産物なのですわーい(嬉しい顔)



そもそも火葬塚とは何で?火葬塚がまた保存&管理されているのでしょう手(パー)

火葬塚とは「火葬場所を記念して設けられた場所」です。


中世において火葬場所と遺骨を納める墳墓を別の場所で行う方式は“最も格式の高い葬儀の方法”でした手(パー)

この方式が行えるのは天皇とその近親者に限るとされていたそうです。



市内には数多くの天皇陵と火葬塚、さらに天皇以外の親王や内親王の陵墓まで分散しています。
我が家周辺でもですが、「近所に天皇陵がある」って生まれてから至極当然の環境は違う地域からは異様でもあるのでしょう。

これが都が1000年以上も置かれた重みではないかなー手(パー)


火葬塚だけ辿る!なぁ〜んてマニアックでツウな観光が出来るのではないかと想像します。

前回は堀河天皇火葬塚でした。
また偶然に見掛ければご紹介しま〜すわーい(嬉しい顔)



ラベル:火葬塚
posted by ひとし at 21:11| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月22日

謎の…“壁面博物館”

三条通りを進んでいると道端にこんな案内板を発見exclamation



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 『壁面博物館』



さらに、


「ご自由にお入り下さい」




気になり&入場無料ならとりあえず〜的にお入りしてみましょう手(パー)



場所は三条東洞院北東角に聳え立つ“中京郵便局”

この郵便局内にどうやら壁面博物館はあるらしい。


三条通りは弊ブログで何度かご紹介していますが、明治から大正時代には京都のメインストリートでした。
日本の大動脈・東海道の起終点である三条大橋から東へ中心部に至る通り。
明治から大正期に建築された日本銀行京都支店や毎日新聞、日本生命、そして郵便局。
赤レンガの建物やモルタル調など、美しい外観を要した当時としては最先端の建物が建ち並びました。

現在のメインストリートが四条通りや烏丸通りに移転。結果的に当時の建物が壊されずに残され、今日では別の用途で再生し、三条通りを再び活気付ける建物として光を放っていますひらめき


そのうちの一つ、中京郵便局は現在も変わらず活躍中。

その中に特設スペースを設置し、立派な壁面博物館が完成しているのでしょう!


東洞院通り側から自動扉を入るとATMが2台。


変わらず。


夜間窓口付近のほんの小さなスペース辺りかな?と、目を向けると何もナシ。


では、郵便局内メインスペースの方向へ行くも…


変わらず。


三条通り側・最も東側の出入り口まで行くも…


変わらず。



どこだ?



戻ると…



あっexclamation


郵便局の壁面に写真を展示している箇所を発見exclamation×2



中京郵便局内、西側の壁面を利用して1978年(昭和53年)に完了した改築当時の写真を展示。

もともとは1902年(明治35年)に完成。
外壁は当時のままの赤レンガ作りのルネサンス様式。
設計は逓信省ですが、京都の近代化建築を代表する一つとして数えられています。

古い写真のほか、改築時に出土した平安時代の埋蔵物も展示。


興味深く拝見しましたが、、、


特に仕切られているわけでもなく、

郵便局内なので一般に利用される方が通られるので、


ちょっと気まずい感じがたっぷり手(パー)



壁面を展示する壁面博物館。

壁の写真を展示する壁面博物館。

文化博物館に対抗する!?壁面博物館。


もうちょっと気合いが欲しいですグッド(上向き矢印)


コンセプトは最高ですから〜



良かったら中京郵便局を利用するついでにどうぞ〜手(パー)




posted by ひとし at 18:09| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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