2013年06月04日

本能寺址を巡る

過ぎましたがふらふら6月2日は“本能寺の変”が起きた日。

ちと本能寺址に寄ってみました晴れ




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現在の本能寺は寺町御池南東角。
これは豊臣秀吉の命によって寺を集約。その一環で現在地に移転させられました。



本能寺の変が起きた当時の本能寺は小川通六角を中心とする区域内手(パー)


現在でも…

「本能寺町」
「元本能寺町」
「元本能寺南町」

と、町名として今に歴史を伝えていますわーい(嬉しい顔)



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旧本能寺の南側とされる蛸薬師通り。小川通りとの交差点角には目



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 此附近 本能寺址



ひっそりと忍ぶように石碑が建てられています。

教科書に載るように、日本人が覚えている有名な出来事の場所手(パー)
もっと大々的にPRしても…とも感じますがねー


最近の発掘調査で当時の本能寺の規模は推定されていた以上の規模であることが判明しました。



ズバリ!!
まだ確実な規模は判明していないグッド(上向き矢印)



歴史って知っているようで分からないコトばかり。

歴史は奥深いモンです。。。




さらに町内には…


6. 4 E.jpg


児童公園の名前はもちろん手(パー)


6. 4 C.jpg



 本能公園



歴史があちこちに散りばめられるも、新たな町を文化を形成するのが京都なのです手(チョキ)





あ!
最近、新聞やマスコミで掲載された信長を彷彿とさせるトコが出来たそうな。
店の前を通れば、オープン祝いの花ばかり!!!!
そこには多数の芸能人の名が刻まれたお祝いの花が…

あー、そーゆーことね。

と。

posted by ひとし at 22:32| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月28日

美男の命日です。 〜『在原業平邸址』

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御池通間之町交差点信号




烏丸御池駅から東へ3本行ったトコです。


なぜここの交差点かと言えば………



交差点角に石碑が見えますクラブ




5.28 A.jpg



 『在原業平邸址』



平安時代初期の貴族であり歌人。

六歌仙の一人で古今和歌集や勅撰和歌集で数多く入集する名手と言っていいでしょう。



その在原業平の命日が880年5月28日、本日なのです手(パー)



在原業平縁の地とされる奈良・不退寺や京都・十輪寺では法要が営まれました。

って手(パー)今から1133年前に亡くなり今日でも営まれる、その偉大さに驚きです。





一方で、在原業平は伊勢物語の主人公と目され、美しい男の代名詞とされていまするんるん



平安時代の色恋沙汰には歌は大いに必要とされていました。

その歌の名手はやっぱりモテる!

さらに美男とくれば無敵でしょ!




その昔、この地にはゾロゾロとファンが!?


今日でも、その当時でも人が多く行き交っていたことにどうも共通点がありそうな御池通間之町界隈です位置情報




posted by ひとし at 22:08| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月26日

気付かれ無さ過ぎちゃいますか!? 〜御土居

府立医大病院前の河原町通り沿いです。

ツツジが美しく花を咲かせています。



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ちょ〜っと、こんもりとしてます。




何気ない花壇の一つかな〜と通り過ぎそうになるほど!




その花壇に石碑がちょこんと設置されています目




すると………





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 『史跡 お土居址』




おおおっ!!!


長年、この前を何度も自転車でバスで車で通り過ぎていました。


気付かなかった自分自身にちょいとショックふらふら




御土居とは…
1591年、豊臣秀吉が京都の防衛と川の氾濫から守るためにぐるりと取り囲んだ土塁のことです。
その延長は22.5q。
現存しているのはごくわずか9ヶ所。
北野天満宮境内や市内北部や北西部のみ。

この東部に現存があるあると聞いていましたが………


身近過ぎて………



灯台もと暗しと言いますか。



何気ないトコに史跡が転がりすぎ!!!



てか、もうちょっと大きく案内してもエエほどのもんでしょうわーい(嬉しい顔)




“こんもり”とした花壇を侮ってはいけない京都です手(パー)




posted by ひとし at 21:08| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月30日

唯一!?毛髪と歯の“塚” 〜後水尾天皇髪歯塚

京都御苑北側、相国寺。

その境内に宮内庁が管轄する“塚”があります目




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天皇陵でもなく、皇族の陵でもなく………




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 『後水尾天皇髪歯塚』




恐らく日本で唯一の毛髪や歯を納めた塚です。



えっ!?毛髪と歯を納めるだけでこのような塚まで造られるのに驚きですexclamation×2




後水尾天皇は江戸時代初期、第108代天皇。
徳川幕府時代、禁中並公家諸法度が下され、圧力に対抗して譲位。
以後、4代の天皇の御代に院政として半世紀担った上皇。
85歳で崩御。昭和天皇が抜くまでは長寿の記録保持者でした。


徳川幕府に対抗し、力も大きかったのでしょう。
ゆえに毛髪や歯の塚まで造られたのか…

あくまで想像ですが…



時の権力者がどのような墓に、塚に葬られたのか。
その規模で現代に伝わる貴重な歴史的遺産です手(パー)



posted by ひとし at 23:45| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月03日

美し過ぎる、巨大過ぎる、大阪城!

天下の台所・大坂。
いつも電車から眺める風景ですが、久しぶりに城内を散策してきましたわーい(嬉しい顔)




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 『大阪城』




豊臣秀吉が天下統一を果たし、拠点とした天下の名城。


ですが!!!!

現在の天守閣は昭和に大阪市民の寄付によって再建された鉄筋コンクリート製。
さらに、現在の大阪城の城郭などは豊臣秀吉の遺蹟ではなく…
徳川時代に再建!
徳川幕府が大坂の陣の後、権勢を誇示するため豊臣時代を上回る城を築城し現在に至ります。

なので、秀吉時代の面影は薄いのが実態なんですねー………




まぁ〜そんな経緯は置いても大阪城の規模は全国有数の大きさ!



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桜門を通れば目の前にドーーーン!



巨大な石垣が立ちはだかります。

偶然写りこんだ子供さんを比較しても容易に大きさが想像できます手(パー)


「蛸石」と呼ばれる石垣。

高さ5.5b、横幅11.7b、重量約130d。
岡山藩内、瀬戸内に浮かぶ犬島からはるばる運ばれた石です。

瀬戸内は石垣に用いる格好の採石場。
よく船が沈まなかったとまず、感心してしまうのは小生だけでしょうか船


桜門のほか大手門付近でも巨大な石垣が見られるので是非、どうぞ手(パー)



その石垣で造られた大きなお堀グッド(上向き矢印)

内堀には空掘と水を湛える堀と二種類!



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この深さ、伝わりますか?



さらに石垣の曲線美は見るものを惹きつけやまない!



時間を忘れるぐらいに!




いやぁ〜感動しますわーい(嬉しい顔)





そして、桜の季節には…



4. 3 B.JPG




やっぱりソメイヨシノは水と相性抜群手(チョキ)




皇居、千鳥ヶ淵のように船から桜を見上げ愛でたらエエのにと妄想します船




さぁ〜そのような堀を進入する者を城内から狙いましょうモータースポーツ




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鉄砲狭間!



鉄砲を設置しやすく、狙いを定め、打ち抜く。

鉄砲を………は無理なので、まぁ〜カメラでも置いてねーカメラ





寄り道で散策のついでが、まだまだ探索できる箇所が多すぎて…今度は一日中散策しないと感じた大阪城散策。


城の美しさ桜の美しさ。
人工美と自然美。


調和する大阪城。
大人の散策に最適ですわーい(嬉しい顔)


ラベル: 大阪市中央区
posted by ひとし at 23:53| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月16日

陶化小前の二宮金次郎像

二宮尊徳。

江戸時代後期の農政家として活躍。
生家を復興させその後、武家奉公人として財政建て直しや知行所に仕法を任せられた人物です。
何よりも報徳思想、私利私欲に走らず、社会に貢献すればいずれ自らに還元されると説く思想は有名。

二宮金治郎尊徳を模した像が全国の小学校各地に建てられていることはよ〜く知られています手(パー)


ただ!



学校にありましたか?
見たことあります?




小生は見たことが無く、幻の像です。






背に薪を負いながら本を読んで歩く姿の“二宮金次郎像”

戦前に政治的な側面から各地に普及し、地元の寄付などで主に建立されたそうです。




その像………




ついに!発見しましたーーーーー目





3.16 A.jpg



「京都市立陶化小学校」の門前です!




ん?ちょっと待って手(パー)


この二宮金次郎さん。


立ち止まって没頭してません?



仕事をしながら勉学に励む……だったような。
まぁー全国各地に普及していれば様々なバリエーションがあっても…エエってことにしときましょグッド(上向き矢印)




立ち止まるほど勉強が面白い!ってコトで手(パー)





ちなみに“陶化”は二宮金次郎よりもはるか昔、由緒ある地名。

平安都制による“左京陶化坊”の地に江戸時代、九条家が邸宅を構えました。
これを“陶化御殿”と呼ばれ、邸宅跡は大石橋付近と伝えられています。

コチラの方がもっと地元に愛着を感じ、歴史に興味を持たせる一つのきっかけだと小生は感じますが…




市内では恐らく貴重な二宮金次郎さん物語でした本


ラベル:銅像 京都市南区
posted by ひとし at 21:52| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

比叡山への主要道“雲母坂”と“雲母寺跡”

京都市内を歩けば、どこかで“石碑”にぶつかります。

歴史的価値を今に伝える“石碑”


石碑があれば、歴史好きは興奮する。


そんなコトありませんか??わーい(嬉しい顔)





1.19 A.jpg



「雲母坂」の“案内板”
「雲母寺跡」の“ミニ石碑”




京都と比叡山を結ぶ道“雲母坂”。

修学院離宮脇から音羽川沿って比叡山へと向かうと音羽川ダム群が見えます。
その脇から山道に逸れる現場にひっそりと案内板は佇んでいます目


雲母坂はその昔、比叡山へ勅使が通った道であり別名・勅使坂とも呼ばれていました。

平安時代後期には比叡山の僧兵が日吉神社の神輿を担ぎ都へ押し掛けた・強訴にも使われた主要道でした。



“雲母寺”とは平安時代に建立された寺院です。
約2.4bにも及ぶ不動明王を本尊として奉り、雲母不動堂とも呼ばれてました。
本堂の他、滝や方丈などを備えた立派な寺院だったそうです。
御不動さんがあったことから雲母坂の別名に新たに加わり不動坂とも呼ばれていたそうです。

明治時代に廃絶となり、不動堂と不動明王は赤山禅院へと移されました。




もし、現代に雲母寺が伝われば、雲母坂から南に位置する狸山不動尊と並ぶお寺として繁栄していたことでしょうわーい(嬉しい顔)


ラベル:京都市左京区
posted by ひとし at 18:19| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月25日

豪華&豪快な“聚楽第の石垣”

豪華絢爛と言われた豊臣秀吉、京都の邸宅「聚楽第」
その本丸石垣の一部が発見され一般公開が行われましたわーい(嬉しい顔)



場所は智恵光院通上長者町下ル東側。京都府警西陣待機宿舎建設工事現場。

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その昔、平安京に遷都された当時に平安宮があったトコで京都の中心部に位置するトコです。

今年9月末までの調査で聚楽第本丸の石垣一部を検出。
その後の調査区域を拡張すると、予想以上に石垣を良好な状態で発掘できたことなので10月に続いて説明会が実施されました。



12.25 A.jpg



コチラが今回、発掘された箇所の全体像カメラ


左手側に聚楽第本丸跡。

自然石のみで積み上げられ、整った見た目から当時の技術の高さが窺えます。

城の堀で見るように、石垣は堀からカーブを描くように建築されています。
聚楽第本丸の石垣の傾斜角度は約55度であり、平和が訪れた安土桃山時代の石垣の特徴を示しています。




さてさて!説明によると…

手前側の石垣を眺めれば目


12.25 B.jpg


やや小振りな石垣手(パー)




そして奥側を眺めれば目


12.25 C.jpg



やや大きめな石垣が並んでいます。



コレは本丸入口近くの石垣の見栄えを意識して積んだのではないかと推測される目





豪華絢爛は石垣まで徹底され、見栄え良く、権威を示し、戦国の世を天下統一したコトを世に知らしめていたのでしょうわーい(嬉しい顔)




さてこの石垣。

どこから運ばれてきたのでしょうか?


この石垣は大部分、花崗岩が使われています。

いずれも切り割りした痕跡のない自然石です。

これらの石質から比叡山周辺や滋賀・大津市の田上山と考えられています。
比叡山周辺と考えられている箇所は我が家近くを流れる・白川上流部。
そして、角が削られ丸くなっているのは白川中下流部辺りから採取されたのではと考えられています。



と、考えれば我が家近くの石が使われ今、この時に出会える!
感慨深いですわーい(嬉しい顔)




また、聚楽第所要の金箔瓦が出土され近くの公園で展示されていましたぴかぴか(新しい)


12.25 E.jpg



拡大すれば金箔が!!!



12.25 F.jpg




瓦全体が金色を想像すれば、改めて豪華絢爛さの果てしなさが窺えますわーい(嬉しい顔)




贅を尽くした聚楽第の歴史を改めてメモ

1585年、豊臣秀吉が関白に就任。
1586年に聚楽第造営、着工。翌1587年に完成。
後陽成天皇を迎えたり、有力大名が訪れたりとまさしく中心地!
1591年、豊臣秀吉が関白職を甥・豊臣秀次に譲り、聚楽第も譲る。
1593年、淀殿か豊臣秀頼を生む。
1595年、豊臣秀次を追放、切腹。
この時に秀吉は聚楽第を徹底的に破壊を行う。



迫力のある聚楽第のほんの一部分でも判明した一般公開でしたわーい(嬉しい顔)




posted by ひとし at 22:51| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

魔去る(まさる)の“お猿さん”探訪!

古の都の北東。
北東、つまりは鬼門の方角には京都を守護すべく偉大なお方がいらっしぃます犬



まず、大本営・京都御所。
仙洞御所の北東は削られ、そこに偉大な方はいらっしゃいます。


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京都御苑全体でも寺町今出川付近は削られ、御苑全体でも鬼門の方向を意識しています。

仙洞御所北東の箇所を「猿ヶ辻」と呼ばれています。

塀の角を欠いて日吉山王社の神のお使いの猿を祀っています。この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


そうです手(パー)偉大な方は、お猿さん!



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猿ヶ辻、やや南側に金網に収められたお猿さん。


なぜお猿なのか…



鬼門。魔の方角。

その魔に対して、お猿さん。

魔、お猿。

魔、猿。

魔さる。

魔が去る!!!



バンザ〜〜〜〜〜イ手(パー)手(パー)手(パー)




事実、魔が去る、見ざる、言わざる、聞かざる。

これらによりお猿さんが京都を守護し今日に平安をもたらしていますわーい(嬉しい顔)





京都御所以外にも北東の要の地にもお猿さんが祭られいるんですひらめき


京都御所に程近い、寺町今出川から北西へ。

12.20 B.jpg12.20 C.jpg


 「出雲路幸神社」



コチラの本殿東側億の壁にひっそりと、お猿さんが京都を守護すべく封じられています。


12.20 A.jpg



地域の神社と京都全体の守護と二束のわらじを掃く神社。

住宅街にひっそりと佇む神社であっても悠久の歴史を今に伝えていますわーい(嬉しい顔)






さぁ〜さらに北東へ進めば、比叡山。

その麓に佇む、数珠供養で有名な赤山禅院。

コチラ本道の頂に愛らしいお姿で守護神がいらっしゃいます。


12.20 I.jpg

12.20 H.jpg





さらにさらに!

比叡山を越えて滋賀県側、比叡山の麓の日吉大社でもお猿さんが祭られています。

コチラでは実際のお猿さんが飼育されていています。

詳しくは2010年1月13日の記事をご覧ください。
http://colorstrue.seesaa.net/article/138227579.html



様々に計算された古の都、京都。


住めば都と申しますが、我が居住地は計り知れない奥深さにただただ畏敬の念が強まるばかりですわーい(嬉しい顔)




ラベル:京都市
posted by ひとし at 23:26| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月11日

火葬塚巡りB “信憑性高い火葬塚!?”〜後花園天皇火葬塚

堀川紫明下ル、堀川通りに面したトコにひっそりと手(パー)




12.11 A.jpg

12.11 B.jpg



 『後花園天皇火葬塚』




後花園天皇は第102代天皇。

時は室町時代。在位は1428年から1464年まで。


南北朝が合体の後、後小松、称光と続くも断絶。
くじ引き将軍・第6代室町将軍、足利義教が保護し、後小松上皇に新帝を要求し即位しました。

1464年に退位し、応仁の乱の中で崩御。




この火葬塚は明治以降に整備されました。
悲田院で火葬されたとの記録に基づくものです。
悲田院跡地、現在は大応寺が建立されています。

記録が明確化されており、中世以降の天皇陵や火葬塚の中では最も信憑性があると言われています。



ラベル:火葬塚
posted by ひとし at 23:48| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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