2014年02月22日

『淀城』と淀君の城『淀古城』

久しぶりに“城探索!”
京都と大阪を結ぶ、おけいはん電車
古の中心地を結ぶ。当然、重要な地となり城が築かれます。
京都御所から伏見城、淀城、枚方城、大坂城と繋がります。

その一つ!



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 『淀城』



淀城は京阪淀駅すぐ隣に石垣が残る城跡です。

淀城と言えば、歴史の教科書で思い出す「淀君」の居城!イメージが強いでしょう。
現存の淀城は江戸時代、二代将軍徳川秀忠が松平定綱に命じて築城されました。
譜代大名が治める城として幕末まで続きました。


では、淀君のために豊臣秀吉が造らせた城はどこなのか?
淀城跡から北東に位置する府道京都守口線・納所交差点から徒歩約3分ほど、妙教寺付近にありました。
淀城と混同を避けるため淀古城として知られています。
1589年に幼少で亡くなった鶴松を身篭もったときに築城。
その後、亡くなった直後の1594年には取り壊されました。
短命な城にも、歴史に名を残した淀君の城として記憶に残る有名な城が淀古城です。


話しを戻して淀城跡。

南東側には石垣と内堀が残され、その日を偲ぶことが出来ますわーい(嬉しい顔)



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京阪電車からも眺めることが出来ます!

淀駅付近は高架となり、京都方面行きの進行方向左側に位置すれば、淀城跡が一望可能!

遠くには秀吉が信長亡き後に仇討ちを果たした天王山まで見渡せるほどの絶景が広がりますわーい(嬉しい顔)



特急に乗車してちょうど熟睡かもしれませんが、寝るのにはもったいない史跡が沿線に点在してますよ〜手(パー)




ラベル:京都市伏見区
posted by ひとし at 20:42| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月27日

国宝『犬山城』で濃尾を握る!


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 『国宝 犬山城』



愛知県犬山市にある、江戸時代までに築城された現存天守12城の一つです。
築城されたのは1537年。
織田信長の叔父・織田信康が築城したと伝えられています。



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現在は姫路城と同様に改修工事が行われていますが、城内の見学は可能!
コチラも解体修理から約50年が経ち、経年の劣化に伴う応急修理ですが、写真撮影にちょい影響があるほどです。


では、城内の見学行ってみましょう手(チョキ)


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城内の階段は急峻!
さらに多くの方々が見学に訪れたため、床はピカピカ!
靴下で歩けばツルツル!

滑り落ちないよう細心の注意を払いながら見学しましょう!


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天守構造は望楼型・三層四階地下二階・複合式天守。

複合式天守とは天守に付くよう櫓が整備されているため呼ばれています。

天守の高さは約19b。



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天守最上階の4階、望楼。

犬山城は江戸時代、尾張藩付家老・成瀬氏が代々城主を務めていました。
その城主の肖像画が飾られています。


望楼の周囲にはぐるりと廻縁が整備されています。
木曽川の畔の小高い山の上に築城された犬山城の天守から眺める景色はまさしく絶景!



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木曽川下流方向を望みます。

木曽川対岸の岐阜県側には伊木山。コチラにも以前は城があったそうです。
やはり見渡せ可能な場所は古より重要な地!

広大な濃尾平野と移動手段となる木曽川が重なれば、否応でも目が向く犬山の地です。



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名古屋方向を望みます。



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犬山城下、現在の犬山市中心部方向を望みます。
真っ直ぐ伸びる一本の道がメインストリートでしょう!




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遠く、雪の頂・御嶽山を望みます。




“城”ブームの昨今。
少しでも興味が向くことはエエこと!

歴史の荒波を乗り越え、今日に伝わる犬山城。
文化を教え、守り、伝える義務が今を生きる我々に課せられていますわーい(嬉しい顔)




posted by ひとし at 17:43| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

古参!? アレ自動販売機 A!

自動販売機手(パー)
ジュースを始め様々な自動販売機が世の中に溢れ、利便性を高めています。
小生のブログでは何度かいろ〜んな自販機をご紹介しています。

そのような自販機のなかで最初に自販機をご紹介したのが2010年11月13日の記事メモ


残念ながら、この秋にその自販機は敷地の主が更地にされ消滅。。。まさしく天然記念物級の自販機になりつつあると小生は考えていますわーい(嬉しい顔)



で、アレの自動販売機をまたもや発見exclamation×2
あえて場所は伏せましょう…


ご覧下さい!




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この形式の自販機に幾つかの特徴があります。


売っている商品にも関わらず交通量が比較的多いところに設置されています。
車で一瞬にして買うのか?ドライブスルーのような感覚でしょうか!?


次に、商品は最大で3品目まで。
単純に小さなサイズの自販機のため、3品目が限界でしょう。


さらに、自販機には珍しい!?屋根が取り付けられているのが最大の特徴でしょうか!?
コレは小生が今まで発見したアレの自販機では100%です。

やはり、濡れてはいけないのか雨



商品を小さめのサイズでご紹介しましょう決定


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きゃっ!!!!


最近はコンビニやドラッグストアで購入するのが多いでしょうか。
まだまだ恥ずかしい年頃の方であれば、自販機は都合良いでしょう。


あぁ〜あの恥ずかしさはいいね!
日本人が忘れかけている恥の文化。

コレが若者に最初の時に実感できる。。。ちょっと異なるかな…



また、発見次第報告を…しましょ揺れるハート


ラベル:自動販売機
posted by ひとし at 23:11| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

『姫路城』大天守修繕工事見学施設閉館まであと少し!


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 『姫路城』



世界遺産であり、国宝である姫路城。
江戸時代初期に築城されたその姿を今に伝える姫路城。
白漆喰の城壁の美しさから別名・白鷺城とも言われる姫路城。


ですが、現在は半世紀ぶりの大天守保存修理工事が行われています。



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この向こうが大天守。

大天守は全体が覆われ、今しか見られない屋根や瓦一枚一枚が間近に見られるように施設が併設されています。


では、その様子を写真でご覧頂きましょうカメラ



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11月末で本体工事完了!


まさしく!
保存修理工事を経た、古くて美しいその姿が間近に見られます。

白く輝きを増した白漆喰の壁や瓦。


今でこそ高いビルを何棟も建てられる技術を持っている現代人。
その昔、江戸時代に13階建相当の高さを持つ大天守を造り上げた当時の人たちの技術の高さに感嘆の声を上げてしまいますわーい(嬉しい顔)


ここでどやこや言うよりは実際に間近で見て欲しい!
それだけです手(チョキ)



ただexclamation
見学施設は来年1月15日まで!!!!

見学施設などを約1年要して解体するためです。



あと、僅かです!

次は50年後…でしょうか。。。




さてさて、大天守以外でも白漆喰の修繕工事が行われていました。



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大天守からでも確認できます目


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白鷺城の名にふさわしい姿が、また後世に伝わる職人さんの技に深く感謝です手(チョキ)



さらに大天守近くにはこれまで城を飾っていたシャチホコが江戸時代、明治時代、昭和時代と展示されています。


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来年の大河ドラマは黒田官兵衛。
ドラマに合わせて、姫路城の注目がより一層高まりそうです。



最後は小生が城でついつい目が向いてしまう“石垣”と“濠”


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さらに現在の姫路城のさらに外側にも濠と石垣が保存されていました。



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市民に、国民に愛されている姫路城。


化粧直ししたその美しい姿を、お天道様の下で光り輝くその日を、
首を長くして待ちましょわーい(嬉しい顔)


posted by ひとし at 23:54| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月19日

平安京史跡散策

794年。平安京に遷都され、京の都が誕生しました。
その中心が「平安京大極殿」
大極殿とは天皇が鎮座する高御座が据えられ、即位の礼などの儀式が行われたところです。
つまり天皇の居所です手(パー)


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千本丸太町交差点北西に入ったトコ、内野児童公園にある石碑。

京都市内、現在の南北のメイン通りと言えば烏丸通りや堀川通り。
当時はやや西側に位置していたことが理解できます。
天神川の氾濫などで時代と共に東側に移行し今日に至ります。




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 「平安宮朝堂院跡」



千本丸太町西入、りそな銀行千本支店前。

朝堂院とは大極殿、朝堂、朝集殿から成っています。
天皇が政治を司る中心の建物です。
この地は大極殿の西側または西側の回廊付近と考えられています。




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 「小安殿跡」



千本通りの歩道縁石にちょこんと設置されたプレート石碑。
小安殿とは天皇が大極殿へわたる前の休憩所にあたります。




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 「豊楽院」「豊楽殿跡」



丸太町通りを西へ。南に一本、並行している通りに整備された跡地。
豊楽院とは外国の要人を迎える、今で言う迎賓館の役目を果たした建物です。




一方で東側をぶらりと散策すれば…


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 「平安宮内裏内郭回廊跡」




千本から下立売通りを東側へ歩けば、再び整備された跡地。

天皇の居住空間である内裏。
その内裏を取り囲んでいた西側の回廊跡が発掘された現場です。




そして、


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 「平安京内裏承明門跡」



内裏へ通じる正門、承明門。
発掘調査では壇跡や雨落ち溝、地鎮遺構が発見されました。





さらに北へ一本、出水通りとの間。
住宅地の前に…



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 「平安宮内裏弘徽殿跡」



弘徽殿とは天皇の后が住んでいた建物。

石碑には小さい文字で“この北”と表示。
まあまあ丁寧と言えば丁寧。




と、まぁ〜平安京散策。


掘れば何か出てくる地。
回れば何か記される地。


まだまだ深そう。
まだまだ眠っていそうです。



posted by ひとし at 23:46| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月12日

もう一つの二条城 〜旧二条城石垣

京都市内の“お城”で真っ先に思い浮かべるのは「二条城」
江戸時代、徳川将軍家の上洛の際に居館として1602年に着工、1603年にほぼ完成しました。
二条城では徳川家康が豊臣秀頼と会見を行ったり、大政奉還が行われた場所など歴史的舞台となったお城です。

歴史の教科書では一方、戦国時代にも二条城の名が登場します手(パー)
13代将軍・足利義輝の居城や織田信長が15代将軍・足利義昭の居城として造られた城として二条城が記されています。

その二条城。
現在の二条城の場所とは異なる場所に築城されていました。


通称、旧二条城や二条古城と呼ばれ、その石碑や石垣が今日残されています手(パー)




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 「旧二條城跡」



下立売通り室町交差点南西角。
平安女学院大学の敷地に建立されています。

当時に旧二条城の範囲は…
北は出水通り
南は丸太町通りと椹木町通りの間
東は現在の京都御苑内・環境省の事務所付近の南北の通り
西は新町通り

大雑把に烏丸丸太町交差点北側に築城されていました。


京都の中心の中心と言える場所、京都御所すぐ近くに築城されていました手(パー)



旧二条城は足利義昭を織田信長が京都から追放した後、自らの居所として整備。
その後、織田信長は皇太子誠仁親王に城を献上。
本能寺の変で焼失しました。


旧二条城でも室町幕府終末期や織田信長と言った歴史の教科書の重要な舞台であったことは間違いありませんメモ




さて、現在でも京都の中心部である旧二条城跡周辺。
烏丸通り地下を走る、地下鉄烏丸線工事に伴う発掘調査で旧二条城の遺構発掘されました。

それが…



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  旧二条城の石垣手(パー)



烏丸通りの4箇所(烏丸出水、烏丸下立売上ル、烏丸椹木町、烏丸丸太町上ル)から発見されました。

現在、その石垣は京都御苑・椹木門入ってすぐに放置、、、いや復元され残されています。


織田信長は築城にあたり短期間で完成させるよう命令し、石垣には近郷の石仏、板碑、灯籠等を徴集し積み込んだとルイス・フロイスより記載されています。
それを実証するように発掘では石仏が発見されたそうです。


石垣は他に現在の二条城にも移築され保存されています目



どこか掘ると何かしら出てくる市内中心部。
何気ない石も、もしかして歴史を見つめてきた証人かもしれませんわーい(嬉しい顔)


ラベル:京都市上京区
posted by ひとし at 20:02| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月08日

家の前に“御土居”があります。

庭先に史跡がexclamation×2
史跡だから、今になっては……



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 『御土居』




何度かご紹介してます、御土居。

豊臣秀吉が京都の防衛のためにぐるりと一周、土塁を築いたのが御土居。
御土居より内側が洛中。外が洛外とも区別される一因です。

市内では天神川沿いに御土居が少しばかり残っています。


そのうちの一つ!

北区紫野西土居町の御土居。



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何気ない低い丘。


この後方には住宅があり、御土居の北隣はそのお家の駐車場となっています。

言うなれば、邪魔と言えば邪魔かな…


自然がある!と言えば、
史跡がある!と言えば、


ちょっとはカッコイイでしょうかわーい(嬉しい顔)




北区紫野西土居町はその名の通り、御土居があった地域を記しています。
故に、北区紫野西土居町は縦に長細く、御土居があった地域を指すように広がっています。

市内には各所で御土居に因んだ町名があり、その町は縦に長細かったり、横に長細かったりと一つの町内でも幅が広がっています。

藩邸のあった地域には藩を記した町名など、その昔の土地の記憶を今に伝える町名。


コレこそ、日本人が培った一つの知恵だと想いませんか?わーい(嬉しい顔)


ラベル:京都市北区 史跡
posted by ひとし at 23:48| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月02日

岩倉具視公の御加恩で造られた岩倉の溜め池“はぶ池”

京都市北東部に位置する、岩倉。
京都盆地の北に小さな盆地を形成しています。
現在では地下鉄や叡山電鉄が通り、国際会館や学校、住宅地が広がっています。
一方、通りを入れば田畑が広がる長閑な風景も残っています。

その山沿いには溜め池が造成され、農業に役立たれています。


溜め池の一つを散策してみましょう晴れ



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ん?つり池???


疑問に感じつつ、住宅街を抜ければ堤防が見え、溜め池がすぐそばにあることを知らせてくれます。


そして、



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 通称『はぶ池』




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奥行き100bほど、対岸までは50bほどの立派な溜め池です。




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溜め池の畔に石碑を発見!!!



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「岩倉具視公………」



おーーいっ!石碑よーーー!最後まで見せて!!!
フェンスが張られているため現地で確認できず。

調べれば、幕末明治に活躍した岩倉具視公が幕末に幽棲したのが岩倉の地。
その時、地元の民によって危害から逃れることができたそうです。
その恩返しで明治時代に岩倉具視が地元へ金銭を与え造られたのがはぶ池などの溜め池であったそうです。


よって石碑には

「岩倉具視公御加恩」

と、記されているようです手(パー)



溜め池沿いを散策すれば…



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堤防が現れ、さらに溜め池がもう一つ出現!



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地図で確認すれば、コチラが“つり池”だそうな……


って何もナシ。。。



よーく溜め池を確認すれば、横断するかのように一直線に並べられた杭が確認できます目


恐らくこれがつり池の跡なのでしょう。


さらに溜め池は山の奥へあと2つほどあるそうです。
また、岩倉の上流部にはあと3つほど溜め池があり、農業の生命線を担っています。





現在の溜め池は木々に囲まれ静かに佇む水面が穏やかな状況を伝えていますわーい(嬉しい顔)
“ただ”の溜め池ですが、石碑が伝える歴史に支えられ、現在の発展があると思い知らされるはぶ池です晴れ



posted by ひとし at 12:19| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月30日

火葬塚巡りC 千本北大路の角にて〜後冷泉天皇火葬塚

“千本北大路”交差点北東角で見守るように目



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 『後冷泉天皇火葬塚』



後冷泉天皇は第70代天皇。
時は平安時代。在位は1045年から1068年まで。

このあとに即位した第71代天皇はご存じ、後三条天皇です。


さて後冷泉天皇の御代。
権勢を誇っていたのはコチラもご存じ、藤原頼通。

摂政、関白を歴任し父・道長と最盛期を迎えます。

後冷泉天皇の皇后は摂関政治の力の源泉、藤原氏から迎えています。
また父、後朱雀天皇も藤原氏から妃を迎え、母は当然の事ながら藤原氏。
外戚で大いに力を誇示していたことでしょう。


しかしながら、藤原氏の権勢も後冷泉天皇までとなりました。
結局、後冷泉天皇に1049年、皇子が誕生するも死産。
子女も若くして無くなるなど子宝には恵まれませんでした。


44歳で崩御し、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位。
外戚を持たない天皇は菅原道真が活躍した宇多天皇以来170年ぶり。
後三条天皇の子、白河天皇が院政へと発展し、摂関政治は衰退へと至り武士が台頭する時代へと移行していきます。


一時代最後の象徴でもある、後冷泉天皇。
御陵は龍安寺境内で眠られています。



posted by ひとし at 23:43| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月29日

JR奈良線改良工事で偶然発見された古墳 〜椿井大塚山古墳

京都・木津川市山城町。
旧山城町を南北に貫くJR奈良線。


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1953年(昭和28年)、当時の国鉄が奈良線拡幅改良工事で石室を偶然、発見されたのが…



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 『椿井大塚山古墳』



破壊が進み全体像は想像域を脱しない状態。


製造は古墳時代初期(3世紀後半)の前方後円墳手(パー)


古墳の規模は…

全長、約175b
後円部直径、約110b
前方部長さ、約80b
前方部墳端幅、約76b
後円部高さ、約20b
前方部高さ、約10b


と推定されています手(パー)



椿井大塚山古墳は自然の地形を巧みに利用して造られた前方後円墳です。

実際に体験出来ることが可能なので見学……
いや!登山してきました晴れ




JR奈良線で分断されているので後円部をくつ



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線路脇の急階段を上ればすぐ!



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自然の地形を利用しているのが一目瞭然。


ただ、3世紀後半の製造から今日に至るまで、おぼろげながらも後円部の姿を留めていることに感激しますわーい(嬉しい顔)



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鉄道改良工事の際に偶然、竪穴式石室が発見されました。


副葬品として重要な発見が!


卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡が32面発掘!
さらに中国鏡が4面の36面発掘されました。

ただ、発見された工事の際に破壊や盗難があり、正式な調査があればさらに数が多かったと推察されています。
他にも夥しい数の副葬品が発見されました。


この発見は卑弥呼畿内説の有力な物証として奈良・箸墓古墳を筆頭とする時代に該当し、日本史上注目を浴びる古墳です。


にも関わらず訪れる人は小生のみでひっそりとしていますわーい(嬉しい顔)





さて、分断された前方部は…後円部から眺めると………



6.29 G.jpg



めっちゃ住宅地やん!!!



そうなんです手(パー)

調べれば、この古墳部に百年以上住まれているとか。

現在ではボランティアで古墳を後世に伝えるべくボランティアで掃除などの管理を行っておられるそうです。


確かに後円部は草が刈られ、管理状態は非常に良く、見学しやすい状態グッド(上向き矢印)
頭が下がる想いです。



6.29 H.jpg



卑弥呼は畿内か九州か。


この論争に決着次第で大きく存在意義が変わるかもしれない『椿井大塚山古墳』




いずれにせよ、今日までの調査では限りなく日本史上重要な古墳であることは間違いありません。

維持管理&伝えることこそが、我々の役目であると汗をダラダラと掻きながら登山した『椿井大塚山古墳』でした晴れ


posted by ひとし at 23:15| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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