赤穂浪士が潜伏していた京都には様々な地域で縁があり今に伝えられています。
代表的な祭りは山科・義士祭り。
約200人が毘沙門堂を出発し大石神社まで約5.5qの道のりを練り歩きます。
その山科の地に大石良雄をはじめとする赤穂四十六義士の遺髪を埋葬した塔があるお寺があります。
“瑞光院”
元禄初期に当院第三世陽甫和尚が播州浅野家長矩夫人・瑤泉院と族縁にあたることから浅野家の祈願寺となりました。
その後の忍傷事件後、供養塔を建立。
討ち入り後は遺髪が寺内に葬られました。
現在は山科・毘沙門堂の南側にある瑞光院。
山科には戦後、1962年(昭和37年)に移転。
その前は…


堀川紫明を下がったトコロに石碑が残されています。
この地は京都御所の北にあたる地。
近くにはお寺が点在し、また天皇陵や火葬塚、船岡山が近くにあります。
京都全体を俯瞰してもそれ相応な地にあったお寺であることが推測されます。
山科へ戦後移転した理由は定かではありませんが、堀川通りの拡張に絡んでいるのでしょうか。
ただ、史実として!
堀川紫明の地に、仇討ちを成し遂げた義士の遺髪が安置されていた。
京都においてもその忠義を評し、支持し、弔っていたことからいかに当時の世相に影響を与えたか容易に推察できます。
どちらかの肩を持ちたくなりますが…
貫き通す堅い主従関係は時代を超えて感動を伝えています
