江戸時代、徳川将軍家の上洛の際に居館として1602年に着工、1603年にほぼ完成しました。
二条城では徳川家康が豊臣秀頼と会見を行ったり、大政奉還が行われた場所など歴史的舞台となったお城です。
歴史の教科書では一方、戦国時代にも二条城の名が登場します

13代将軍・足利義輝の居城や織田信長が15代将軍・足利義昭の居城として造られた城として二条城が記されています。
その二条城。
現在の二条城の場所とは異なる場所に築城されていました。
通称、旧二条城や二条古城と呼ばれ、その石碑や石垣が今日残されています


「旧二條城跡」
下立売通り室町交差点南西角。
平安女学院大学の敷地に建立されています。
当時に旧二条城の範囲は…
北は出水通り
南は丸太町通りと椹木町通りの間
東は現在の京都御苑内・環境省の事務所付近の南北の通り
西は新町通り
大雑把に烏丸丸太町交差点北側に築城されていました。
京都の中心の中心と言える場所、京都御所すぐ近くに築城されていました

旧二条城は足利義昭を織田信長が京都から追放した後、自らの居所として整備。
その後、織田信長は皇太子誠仁親王に城を献上。
本能寺の変で焼失しました。
旧二条城でも室町幕府終末期や織田信長と言った歴史の教科書の重要な舞台であったことは間違いありません

さて、現在でも京都の中心部である旧二条城跡周辺。
烏丸通り地下を走る、地下鉄烏丸線工事に伴う発掘調査で旧二条城の遺構発掘されました。
それが…


旧二条城の石垣

烏丸通りの4箇所(烏丸出水、烏丸下立売上ル、烏丸椹木町、烏丸丸太町上ル)から発見されました。
現在、その石垣は京都御苑・椹木門入ってすぐに放置、、、いや復元され残されています。
織田信長は築城にあたり短期間で完成させるよう命令し、石垣には近郷の石仏、板碑、灯籠等を徴集し積み込んだとルイス・フロイスより記載されています。
それを実証するように発掘では石仏が発見されたそうです。
石垣は他に現在の二条城にも移築され保存されています

どこか掘ると何かしら出てくる市内中心部。
何気ない石も、もしかして歴史を見つめてきた証人かもしれません
