2011年06月23日

明智光秀と見られる“塚”

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。


戦国時代の覇者と言える3人の戦国武将。

信長と秀吉の間で三日天下と言われた武将はもちろん!明智光秀。


その明智光秀のお墓とされるトコへ…


6.23 D.jpg


旧東海道の三条通りを白川沿いに南へ歩くと、小さな案内板が“コチラへ”と、呼びかけています。


歴史上名を馳せた明智光秀のお墓とは思えないほど小さな扱い。



主君に対して謀反を起こし、仇討ちされた結果から当然とも言えるかもしれませんが…



住宅地の幅が狭い小さな道をほんの少し東へ歩きます。


6.23 C.jpg


この向かって左奥に明智光秀のお墓とされる塚があります。



6.23 A.jpg

6.23 B.jpg


とても質素な塚です。

歴史上有名な方でも終いの扱いは様々です。


徳川家康は日光東照宮、静岡・久遠寺は壮大!


豊臣秀吉は豊国廟や豊国神社と徳川家の影響で小さくなってしまうも名所。


織田信長は本能寺や大徳寺総見院、建勲神社などで奉られています。




先ほどから明智光秀のお墓とされる〜と書いてますが、一説には明智光秀は討たれなかった!と手(パー)


その中で、徳川幕府で絶大な権限を握った僧・南光坊天海となった説があるんです!

南光坊天海は出自が不明ですが、本能寺の変の後から史記に登場します。

明智光秀と南光坊天海の筆跡が本人か近親者と推定される鑑定があったり、
明智を連想される発言をしたり、
僧が鎧を残していたり…



様々に根拠や反論はありますが、信じるか信じないかは皆さん次第です手(パー)



そうそう手(パー)山岡荘八の歴史小説では明智光秀は生き残り、こっそりと秀吉が相談に訪れていた設定になってましたねー。。。


小生は歴史のロマンを感じるのと驚きで信じる派です。

posted by ひとし at 18:40| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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