その本丸石垣の一部が発見され一般公開が行われました

場所は智恵光院通上長者町下ル東側。京都府警西陣待機宿舎建設工事現場。

その昔、平安京に遷都された当時に平安宮があったトコで京都の中心部に位置するトコです。
今年9月末までの調査で聚楽第本丸の石垣一部を検出。
その後の調査区域を拡張すると、予想以上に石垣を良好な状態で発掘できたことなので10月に続いて説明会が実施されました。

コチラが今回、発掘された箇所の全体像

左手側に聚楽第本丸跡。
自然石のみで積み上げられ、整った見た目から当時の技術の高さが窺えます。
城の堀で見るように、石垣は堀からカーブを描くように建築されています。
聚楽第本丸の石垣の傾斜角度は約55度であり、平和が訪れた安土桃山時代の石垣の特徴を示しています。
さてさて!説明によると…
手前側の石垣を眺めれば


やや小振りな石垣

そして奥側を眺めれば


やや大きめな石垣が並んでいます。
コレは本丸入口近くの石垣の見栄えを意識して積んだのではないかと推測される

豪華絢爛は石垣まで徹底され、見栄え良く、権威を示し、戦国の世を天下統一したコトを世に知らしめていたのでしょう

さてこの石垣。
どこから運ばれてきたのでしょうか?
この石垣は大部分、花崗岩が使われています。
いずれも切り割りした痕跡のない自然石です。
これらの石質から比叡山周辺や滋賀・大津市の田上山と考えられています。
比叡山周辺と考えられている箇所は我が家近くを流れる・白川上流部。
そして、角が削られ丸くなっているのは白川中下流部辺りから採取されたのではと考えられています。
と、考えれば我が家近くの石が使われ今、この時に出会える!
感慨深いです

また、聚楽第所要の金箔瓦が出土され近くの公園で展示されていました


拡大すれば金箔が!!!

瓦全体が金色を想像すれば、改めて豪華絢爛さの果てしなさが窺えます

贅を尽くした聚楽第の歴史を改めて

1585年、豊臣秀吉が関白に就任。
1586年に聚楽第造営、着工。翌1587年に完成。
後陽成天皇を迎えたり、有力大名が訪れたりとまさしく中心地!
1591年、豊臣秀吉が関白職を甥・豊臣秀次に譲り、聚楽第も譲る。
1593年、淀殿か豊臣秀頼を生む。
1595年、豊臣秀次を追放、切腹。
この時に秀吉は聚楽第を徹底的に破壊を行う。
迫力のある聚楽第のほんの一部分でも判明した一般公開でした
