淀川の雄大な風景を橋の上から眺めるとなんと!気持ち良いか

この壮大な流れ、ほんの150年前には船が往来し京都と大阪を結ぶ物流の大動脈でした。
今の景色を見るとなかなか当時の盛況さが想像できませんが…
その畔、摂津市鳥飼


『離宮 鳥養院 の址』
石碑の説明を見ると…
淀川は数多くの人の往来があったと。
都から天王寺、住吉、高野山、熊野への参詣。
さらに西国へと地方官が多く利用していました。
時には、天皇や上皇も。
その中で「曽我物語」の巻第一に、惟喬親王と中将・在原業平が懐旧談にふける条で
「今昔の事ども申うけたまはるにつけても、御衣の御袂、しぼりもあへさせたまはず、鳥養の院の御遊幸…」
また「大和物語」には、宇多天皇がここをしばしば訪れたことが書かれています。
このあたりの字名が「御所垣内」と言われていたことから、石碑の地が離宮があったと推察されるそうです。
京都から大阪まで鳥羽離宮や水無瀬離宮と川と自然が一体となった場所で離宮が造営され、豊かな文化が育まれたことが想像できます

今日は河川敷に公園やゴルフ場、自転車道などと現代の文化と融合している淀川。
大きな回遊式庭園などがまた風流であるかな〜と淡い期待と妄想を続けている小生です

その一方で寝屋川市側の淀川堤防で石碑発見!!!!!

「茨田(まむた)堤」
コチラは暴れる淀川の水を守るべく築かれた堤が茨田堤。
その年代がめっちゃ古い!
「日本書紀」仁徳11年、つまりは仁徳天皇の御代に…
「天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた。」
との記述があります。
当時の都は難波宮。つまり大阪市。
淀川の水害で悩まされた宮を守るべく、大規模な改良工事が施されたそうです。
堤防を築く一方で、上町台地の先端部を掘削して造られたのが「堀江」
「茨田堤」と「堀江」の大規模工事は書物で残る日本最初の土木工事とされています

淀川の歴史は絶え間なく流れる水と同じように数多くの歴史をも語っています
